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変わる日本人の中国生活、危険手当時代から先進のデジタル生活へ。

1990年代までは、大手商社でさえ中国勤務は嫌われた。最も危険な赴任地にランクされ、危険手当を支給していた。治安の悪い発展途上国扱いだった。それが面目を一新し、2010年ごろの北京、上海では、ほとんど生活上の不自由はなくなっていた。そして2014年から始まった革命的イノベーションにより、キャッシュレス社会が達成され、シェアエコノミーが浸透し、今では日本よりも便利になっている。

一方で、旧い中国、日本本社に説明不能な特殊事情もいろいろと残り、ときに、唖然とさせられる経験も味わう。中国駐在員には、それらを面白い、と笑い飛ばす精神的余裕が必要だった。近未来はどうだろう。駐在員の目で、日本人の中国生活を振り返り、今後の展望も考えてみよう。

1990年代の構造改革

1990年ごろ、商社マンに人気の高かった赴任地は香港だった。日系百貨店、量販店が多く、英語も通じ、住みやすかった。中国貿易を推進するにも、香港企業がハンドリグしてくれた方が安心だった。中国との直接取引は、リスキーで、汚れ仕事のような感覚だったのである。やがて90年代半ばから、対日ビジネスの中心は上海とその周辺へ移る。北京と違い、ここには幅広い近代工業の集積があった。それらを直接投資、または間接の技術指導によって、輸出産業へと育てる。それが90年代、日本側のメインテーマだった。

中国側の目標はWTOへの加盟だった。そのため、国有企業改革、外資の内地企業待遇、市場開放などに、当時の首相・朱鎔基が剛腕をふるった。大前健一氏は彼のことを“100年に一人の政治家”と評している。それほどの難事業であった。そしてWTO加盟が実現したのは2001年12月である。効果はてきめんに現れ、ここから経済成長は加速した。中国の名目GDPは2001年の1兆3441億ドルから、2018年の13兆4074億ドルへ、10倍増を達成したのである。

日本人社会、2000年代の最盛期

2000年代は、上海の日本人社会も最盛期を迎えた。駐在員と家族、長期滞在者の合計は、6万人とも8万人とも言われた。日本人学校は、浦西と浦東の2ヶ所に開校した。日系企業のリスクマネージメントを担うWellBeと契約しておけば、急病でも日本語のケアが受けられ安心だった。日本料理店は、みな日本各地の名物料理など特色を打ち出していた。そうしなければ生き残れないほど増殖していた。日系大手コンビニ3社もすべて進出した。

2010年ころの休日には、ユニクロや無印良品で買い物をし、吉野家やCoCo一番屋で食事して帰るなど、ほぼ日本と変わらない暮らしぶりとなっていた。しかし、このころを最盛期として、上海の日本人数は減少に転じたと見られる。

取り残される日本、という幻影

今の上海駐在者たちは、何を思っているのだろうか。中国のデジタル化の急進展には、唖然とすることが多い。地下鉄駅から目的地まで10分以上歩くののがいやなら、シェアサイクルを利用すればよい。タクシーが少なければ、配車アプリを使う。カタコトの中国語さえわかれば十分使える。そして小口の支払いは、ほぼすべてモバイル決済だ。実体店舗ではQRコード決済から、虹彩認証、顔認証決済が広まってきた。OMO(Online Merges Offline)の進展も急速だ。料理から生鮮、コーヒーまで宅配できないものはない。

今年4月、日本では2024年に新紙幣を発行する、と報じられた。それはいいのだが、続いて、株式市場で金銭計数関係の銘柄が上昇した、と伝えられた。それを聞いて、日本は、本当にまずい、と感じた中国駐在員は多かったろう。取り残される、という幻影がはっきり見えたからである。日本は彼らの声に、真剣に耳を傾けなければならない。彼らは不安をあおる存在ではない。アイデアを出せる貴重な人材である。

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